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「聖なる公同の教会」

マタイ16章15ー18

2022/05/15 

 使徒信条の後半「聖なる公同の教会」

 「われは聖なる公同の教会を信ず」

 「あなたがたは私を何者だと言うのか」とイエス様からご質問を受けたペトロの答「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。ペトロの答えをお受けになったイエス様は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた。ペテロという名前は、「岩」という意味を持っているので、「この岩の上に」つまり、イエス様を生ける神の子キリストと信じたペトロの信仰の上に、イエス様は教会を建てると言われた。

 「あなたこそ、生ける神の子キリストです!」

 向島キリスト教会は、この信仰の上に建っている。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」というまっすぐな信仰の告白のもとに礼拝をし、日曜学校があり、祈祷会があり、すべての集いがある。この信仰がなければ、教会の業は単なるサークル活動である。

 イエス様は十字架に架かり、復活されて、天にお帰りになるとき、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」と言われた。そのイエス様のお言葉を信じて洗礼を受けた人が、救われ、イエス様の教会のメンバーとなる。あなたは自分が罪人であることを認めたか、信仰を言い表したか、洗礼を受け、クリスチャンとしてスタートしたか。それならば、ご一緒に、生涯をかけて、天国の門に入るまで、教会と共に歩いて行こう。

 

 使徒信条で、「聖なる公同の教会」と言い表しているように、イエス様の教会は、聖なる教会と呼ばれる。

 「聖なる、きよい」と言うのは、教会堂の外側や内側を指すのではない。「教会は神さまに属するもの」という意味。聖書で「きよい」というのは、きれいではなく、「分けられている」という意味。世の中から分けられているという意味。

 さらにクリスチャンは「聖徒」と呼ばれている。ここでも、「聖」というのは世の中から区別されているという意味。この世の人たちと同じように朝起き、食事し、学校や仕事に行き、と、この世の人たちと同じように生きているようだが、生きる目的が違っている。クリスチャンは何をしていても神様のために生きている。世の人は神様以外のことのために生きている。。

 公同の教会

 「公同の教会」とは?

 礼拝の中で使徒信条を読む教会、必ずしも礼拝で毎週読まれてはいないけれど、信じている教会は、どの国、どの地域、どの教派にあっても、イエス様の一つの教会である。それが「公同の教会を信ず」という意味である。アフリカも、ヨーロッパも、アジアも、オセアニアも、南北アメリカ大陸も、どこにあっても、イエス様の教会は一つ。イエス様は大きな木の幹であり、全世界の教会はその枝のようだ。私たちの向島キリスト教会もその小さな枝の一つ。世界の教会は、教会運営の形態の違い、信仰の強調点の違い、賛美や祈りのスタイルの違い、など色々な違いがあっても、どれもがイエス様の大きな幹につながる枝枝。すべての地域の教会が、見えない大きな一つの教会につながっていると信じる心が、「われは聖なる公同の教会を信ず」と告白する心。神様に選ばれ、このような恵の教会の一員とされたことを感謝する。(山口秀樹牧師)

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